現場を理解してくれていると思っていた、というより都合よく思い込んでいた人の言葉を聞き、一瞬で気持ちが反転した。
別々の目的が、別々の場所から、一時的に同じに見えただけ。
誰かが言っていたように、ただのワガママだ。
役目を果たすには、孤独になっていくしかない。
その役目とやらも、まやかしに過ぎないのだが。
勝手な期待やらなんやらに、勝手に裏切られて、勝手にげんなりしている。
明日は誰とも話したくない。
仕事の日程を一週間違えて、行けないライブのチケットを取ってしまった。
近場の会場の抽選にことごとくはずれ、遥か遠くの町の公演を取ったのだが。
今年は先行に外れ、一般でも買えないことが続いている。
休みを一日無駄に過ごした。
今から行く宛のないドライブへ。
知りたくない事を知ってしまった。
何故第三者に話すのか。
薄々感じてはいたけれど。
個々の選択に介入する事は出来ない。
それぞれの時間と人生がある。
一抹の寂しさはある。結局何もできなかった。
時を同じくして、将来的な配転の話があった。
奴等との考え方の相違がはっきりした。
これだけ人が少なくなって、なおオールマイティな人材を作ろうなんて考えは、私は絵空事だと思う。
一年や二年でものになるほど甘くはない。
それぞれのセクションで、腰を据えてプロフェッショナルを育成するべきだ。
駒をどう使うかのは、上に立つ人間が考える事。
奴等はそろそろ考えなければいけない。
都合よく、何時でも何処でも常に及第点を記録できる駒なんて、空想の産物だ。
ユーティリティーというのは、あくまで個人の生存戦略の結果として出現するもの。
意図的に作り出せるのであれば(作り出せる環境もあるのだろうが、此処はそうではない)、我々の職場はこのような惨状を呈してはいない。
新しい部署で学ぶ事が沢山あった。
が、組織として体を為していない場所では限界がある。
来年度で区切りを付ける。
何にも話してないのに、別々の友人から連絡が来た。
誰かに助けられている。
一方私は、誰にでも優しくというのは出来ない。
日々、我が器の小ささを噛み締めている。
「何年もやっていたお前に一日の長があるのだから、キャリアの短い者に同じレベルを求めるのは無理がある」と言われ、確かにそうかなとも思う。
私が文句を垂れているのは、「出来ない」事ではなく「出来るようになろうとしない」事であるので、本質的には違う。
外から客観的に評価を下す場合に、前記のような見え方になる事は、理解はできる。
なんにせよ、今の私は評価者でもコーチでもない。
そうなると、また内に向かう(自分の技術を上げるしかないという)選択になる。
否応なしに視界に入るセクションであり、酷くストレスを感じる。
物理的に気にならない場所で仕事がしたい。
葬送のフリーレンが素晴らしすぎる。
私も旅に出たい。