オートバイ修理技術

ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』上下巻(五十嵐美克訳、ハヤカワ文庫)読了。
電車内で時々読んでいたが、読み終わるまで半年くらい掛かった。
購入は2〜3年前。どこかに記録しているとは思うが定かではない。
以下ネタバレがあるかもしれない。

オートバイによる著者と息子の旅と、著者の失われた記憶、クオリティを巡りパイドロスが辿った道程が交互に語られる。
まず特筆すべきは実際に著者が電気ショック療法により記憶を失っていた点であろう。
ひょんな事からヒロインを救う為に記憶を失ってしまう漫画やアニメが氾濫する今日この頃(?)でさえ衝撃的だ。
電撃により過去の自分は壊され(もっとも治療が施された頃には既に彼は壊れていたのだろうが)、新たな自分が作られる。
一人の人間の中に二人の人間が同居し、新たな人格(ナレーター)は他人事のようにかつて自分が歩んだ風景を語る。
電気ショックで消された筈の亡霊・・・パイドロスが行った探究、過去の哲学者・科学者達に対する批判や発見。
作中で「パイドロス」と称される人物に関する記憶は断片的であり、著者は過去のメモや周囲の人々の言葉からパイドロスという人物を推し量る。
クオリティを探求するなかでシカゴへ赴いたパイドロスは、講義での対決を通し委員会に事実上勝利する。
しかしそんなものは彼が求めたクオリティではなかった。という事で合っているのか。
クオリティはそもそも備わっているのだと。
最後にはナレーターからパイドロスへと語り手が移る。息子クリスもその事に気付いたかのような描写。
クリスは著者を、著者はクリスをどう見ていたのだろうか。

この本はパイドロスが行った哲学的思索よりも、最後のパイドロスとナレーターの心理的な部分が難しかった。
一般教養科目で得ただけのニワカ哲学知識を思い出すのには難儀したが。
作中とあとがきでビートニクについて触れられていたが、「古典的」「ロマン的」という区切りより先に作中の雰囲気からケルアックの『路上』を思い出した。
僕が語るまでもない名著なのだろうが、これはまた読み返したい。
今度は短期間で。